すーめろ⑥

最後。

この話は改心した王に対し群集が万歳するところで終わらない。以下のように終わる。 

ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。

 

メロスは風体をきにせず走ってきてほぼ全裸であった。そこへ少女がマントを持って来て“よきとも”に声をかけられ自分のなりに気づくのである。

なぜこういう終わり方をするのかに対しては様々な考え方がある。

走れメロス 最後の5行”で検索をすればいろいろとでてくるので見て欲しい。

玉石混合いろいろあるがどれが正解というものはない。各自が思うことが正解なのだ。

そこにこそ太宰治がこれをかいた意味があるのであろう。

 

私の解釈は、“正道の非道”である。

ここでいう正道とはまっすぐ、実直、ストレートずどんと続く正しいことという意味合いである。北海道などにあるやたら長くて立派な一本道のイメージ。

メロスは自分の信じる愛だの正義だの信実などというものは絶対的に正しいと信じて疑わない確信犯である。その結果、彼は命を失いかけ、友人を殺しかけ、妹の結婚式を無茶苦茶にしかけた。周りの人間にとっては“メロスに激怒した”状態なわけである。

その人にとっての正義は見方をかえれば身内すら不幸にする可能性を持っている。

大団円でメロスを勇者にして終わってしまえばメロスの自己本位的無計画さには触れずじまいである。

まっすぐであること、正道であることはいつも正しいとは限らず、時にそれは恥ずべきあるいは忌むべきことであるということわかりなさいよというメッセージと私は読み取った。

最後にメロスは自分の行動を省み、赤面したのであろう。

この話は初出が1940年。太宰の熱海事件が背景にあるのなら、構想し、書かれたのは1936~1940年の間のどこか。その頃の日本の状況ともあいまって余計なことを勘ぐってしまうものだ。