9/1 個性ってなんだろうか
個性ってなんだろうか。
ブログにはじまり、mixi、facebook、ツイッターと個人が対外で情報を発信するツールは増えた。しかしながら、有名人でもない限り、波乱万丈な人生を送っていない限り、平凡な人々の日常なんて誰が興味あんねんということばかりである。そして自ずと食べ物写真集へと収斂されてしまう。
情報発信の場があれば個性的なオレ、アタシたりたいと思うのは誰しもである。そこで誰でも手軽なのがワル自慢だ。ツイッター上での飲酒喫煙自慢、バイト先での悪ノリ自慢などなど。外野の人間はバカだなあと思ってバカッターと揶揄しているけれどもなんでそうなるのか少し考えてみたい。
消費と浪費のハナシ
國分功一郎さんのボードリヤールの話が面白い。http://studiovoice.jp/?p=36737
浪費と消費。浪費はモノを受け取るため限度がある。どんなにおいしいものでも胃袋の限界まできたら食べるのを止める。一方で消費は希望や観念、意味などを受け取る。よって際限のないものになってしまう。
なるほど。
社会学的なノリ
肥大する欲望。こうなるとアノミーという言葉がでてくる。
まずはデュルケームから非常にざっくりと。人間の欲望は社会という箍(リミッター)がないと無限に肥大化してしまう。肥大化した欲を満たす手段はいずれなくなり、満たされない欲求不満が続く。それはつらい。
さきほどの話では、浪費の方は物質的限界があるが、消費には際限がないと。肥大していく欲望を制限できるものがない消費社会というものが慢性的なアノミー状態なのは当然といえる。
続いてマートン。ある社会において皆がそれを目指す“文化的目標”というものと、それを達成するための“制度的規範”とのズレがあるとアノミー状態になる。1930年代アメリカの場合、金銭的成功(いわゆるアメリカン・ドリーム)が文化的目標であったが皆がみな制度的規範にのっとってそれを達成できるわけではなかった。高い教育を受けて高い収入を得るというのが一般的なプロセスと思うが、そもそも貧乏な出自では高等教育を受ける機会を得られない。しかしながら文化的目標という欲求には絶えず刺激されるのである。それはつらい。
消費、それはマジカルな仕組み
大量にモノが作れるということは逆説的に大量に売らないといけないということである。限度のある浪費では大量生産されたものを消化できないのだ。そこで生まれるのが消費。
広告により流行をつくれば次から次へとモノをさばけるようになる。
皆が同じものを買うというのはまだかわいらしいが、その次のステップは個性を人質にした早いサイクルの消費である。個性的であれというのを文化的目標にかかげるのは消費のサイクルをはやめるのにうってつけ。
あるものがはやる、皆がそれを買う。個性的たれというものがなければそこでとまる。しかし個性的たりたい人はすぐ新しい広告にとびついて消費をする。そのくりかえし。
適応類型
消費社会という中で、われわれは常に欲求不満状態に陥っている。さらに個性的たれという文化的目標がわれわれを苦しめる。
マートンは文化的目標、制度的規範に対する適応類型を4+1個のべている。それにあわせて個性と情報発信を考えてみたい。
(1) 同調
文化的目標も、制度的手段も承認する。生きてるだけで面白いその発言に皆が興味を持つ。有名人、タレント(才能を有するという意味での)などなど。
(2) 革新
文化的目標は承認するが、制度的手段は拒否する。個性的であらんと欲すもののその日常は平々凡々。しゃあないということで安易に他者と差異化できるものとして非道徳的な手段にでるものである。交番の前でタバコ吸っているオレ19歳、バイト先の冷蔵庫に入るオレなどなど。
(3) 儀礼主義
文化的目標は拒否するが、制度的手段は承認する。別にフツーでいいじゃん。ということで食べ物写真集をつくる人々。
(4) 逃避
文化的目標も、制度的手段も拒否する。そもそもブログもツイッターもやんない。
(5) 反抗
文化的目標や制度的手段のいずれにおいても、一般に受け入れられている価値を拒否し、新たな価値による代替を試みる。って例が思いつかない。
さいごに
世の中のものはバランスがとれるようにできている。消費社会がバイトテロを受けるというのもある意味きちんと因果応報な気がしてきた。
個性は消費して探し求めるものでなく、自分を知り、自分を認めるということからスタートする。
数年前、ヨワイ30を過ぎたと思しき布巻の人(東南アジアっぽい民族衣装みたいなんきた人のことをそう呼ぶ)が「インドいけよ!人生かわるぞ!」みたいなことを熱く語ってくれた。
しかし、自分を探しにインドへ行ってもしゃあないのである。その人が布巻いて定職につかずにいることは駄目なバックパッカーのモデルケースであり極めて没個性的。アイロニ。
だから、そうだインド行こうの広告に巻き込まれた哀れな人かという目で返してしまった。彼は今なにをしているのだろう。おそらく同じ生活をしているのだろう。